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Story

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 私はこれまで風景について考えてきました。それは単なる目の前の空間の広がりではなく、人に働きかけ、作用するものとしての風景です。現代の私たちはほぼ人がつくった物や空間に囲まれて生きています。人がつくったものは意図やイメージを持っています。逆に言えば、私たちはそうしたイメージにいつも囲まれて生きていて、それが対峙する現実となっています。

 そうした物で構成される風景はどこからやってくるのか。初めはいつもイメージとして誰かの頭の中に発生し、建築の最初の像がきっとそうであるように、“白い面に黒い線で描かれる。” そう思ったことがきっかけとなって線を描くことが始まりました。ここに掲載した絵がその最も最初の作品です。そして目の前の風景は私達の外でありながらとても内的であると私は考えています。

 人という大きなくくりに照らして言えば、長い長い間、人類にとっての環境は、ひたすらに外に広がる自然だったのだと思います。それは膨大で時間のかかる変化の繰り返しで、人の言葉を語ってくることのない超現実といえると思います。フランス留学中に訪れた古い壁画のある洞窟で感じたのは、果てしない静寂と何やら語り出した点のような意識との強烈な対比でした。完全に自然が造形した岩壁に囲まれた場所で、また人がつくったものを目にする体験がほとんどなかった状況で存在した絵はどれほどの求心力を持ってそこにいた人の目を捉えたか、という強い体験です。そしてそこに比較して考えれば、現代の環境は言葉と共に風景化し、その"風景"はひたすらに"イメージ"だと言えるのではないかと思います。

 こうして始まった線の表現は、特徴的に無数の小さいタッチが全体の像を構成しています。直感的に選択した事でしたが、小さい単位に分かれていることの意味は、その単位を元に解体や再構成が可能になるということだと今では思っています。

 私が感じて捉えた風景は、その見た目の奥に広がる意識や感覚が作り出す構造の世界でした。きっとそのために、単位や構造を展開してゆく最近の作品はそれを辿っているのだと思います。

                         関根直子

                           2024

 この絵の中のイメージを示す線は描かれたものではなく、変形パネルを組み合わせたことでできる物理的な線でできており、実際に見ると光によって線の表情が変化してゆきます。手書きのラフスケッチを画面に投影して線を引き、その線に沿って分割されたパネルの裏側はボルトで固定してあることで、このイメージが自ずと分割される可能性があるという様子を含みながら、鑑賞者の意識にイメージの揺らぎを与えています。

 こうした画面構成は、大きく2つの出会いから生まれました。1つは2022年、MA2Galleryで開催した「2つの変容」展の中で、具体のメンバーである松谷武判さんの作品と空間構成した際、その作品について考えたことでした。松谷さんの代表的な作品の中に、キャンバスにボンドを流し込み、形成し、そこにアクリル絵の具や鉛筆が重なってゆくという作品があります。キャンバスに柔軟な形態を持ち込んでおり、それは私の作品にはない要素のように思えました。ですが、それまで縦割りで7cmずつ横幅の違うパネルを並べて1つの大きな作品を造ったり、パネルの物理的なサイズ感が絵のパースペクティブそのものを示すような考えは持っていたので、物理的な感覚と絵の中のイメージが隣接するその考えが前進し、”パネルを分割してできた線を絵画のラインとする”という発想に辿り着くのに時間はかかりませんでした。そして右のような作品が出来ました。またそのすぐ後には、そこに描いた線を足すという作品を描いています。

​ それよりずっと前の2013年の1年間、私はフランスに留学をしています。その際10か所ほど古い壁画のある洞窟を見て回りました。私が見た壁画の中には、1つの動物の像が、自然がつくる形や影に、足りないところだけ線を描き足して出来ているものがあり、それは最も印象的な像でした。

​ そして、分割パネルによる線に描いた線を足してできた作品を見た時、やっとフランスの洞窟で見た像に近づいたと思ったのでした。

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