2022.11.10-12.1  “複合風景-Composite Scenery”  関根直子

 

<Mirror Drawing シリーズ>

私がドローイングを中心に制作を始めたのは大学3年の頃でした。その頃 “風景について”、また自身の“環境について”、そして“今がどうして今のようなのか”考えていました。現代の風景はほぼ完全に人工的に生み出された物によって構成されています。それらがどこからやってきて、またそれが出現する瞬間はどこにあるのか。

人が作り出す風景は、常に始めは“イメージ”として誰かの内に存在し、外に具現化されてゆく。そう考えた時、風景は外にあるものであると同時に内的な感覚を孕んでいると感じました。そして、建築、もしくは建築的な感覚によってデザインされてゆく都市の風景は、その最初の出現を“白い紙の上に黒で引かれた線”によって立ち上がってくるのだと認識し、私にとっての”ドローイング”が始まったのだと思います。最初に描いたものは建築の部分をアウトライン化したようなシンプルな形でした。

 2017年”Mirror Drawing”という作品を発表しました。それは鉛筆によるドローイングですが、画面に残される線は、もはや建築的な像を示す線ではなく、鏡面を作り出す”質”にまで変容しました。重層する鉛筆の線を見せながら、同時に鏡面となっている表面は、常に鑑賞者を取り込んでいるので、“線を見ているのにその背後に自分の影が動いて見える“という不思議な体験を立ち上げています。画面全体を覆うその質が、実空間の像を取り込んで表象として常に変化します。そして、そのことが絵の中の図像に関する意識も変化させました。

Mirror Drawingシリーズの第一作目は、2017年に初めてアメリカに旅行し、ヒューストンにあるRothko Chapelを訪れた後に描いたものです。あらゆる宗教に開かれた瞑想の場として設計され、自然光が間接照明のように入り込む(自然光だけの)空間では、Mark Rothkoの赤味のあるパープルグレーの作品が、光によって彩度を強くしたりモノトーンになったり、まるで呼吸しているようでした。短い滞在期間でしたが、時間を変えて3回訪れました。絵画そのものが、外から入ってくる要素によって呼吸するような感覚は、“自然について”の表現を図象化するのではない方法によって可能にしているようで、美しいと感じました。帰国してからMirror Drawingを制作する際に心に浮かべていたことが他にも3つあります。モネの水蓮のシリーズ(空を水面に映すことで、空を”空間そのもの”ではなく“表面を持った像”として捉えたという私の持論)、アルハンブラ宮殿(建築に面したプール)、ガウディの砂袋とロープで作った構造体フニクラ(Funikura / 重力による曲線を建築に取り入れる為にガウディがした研究した模型。構造体の下に鏡が設置してあり、逆さまに映るその形が、正にガウディの建築のようになっている。)です。これらはどれも、映しこむことで世界を捉える、又は立ち上げる表現であると思います。

 2022年の春、MA2Galleryでの展覧会で、具体のメンバーである松谷武判さんの作品とコラボレーションをしました。松谷さんの作品の中に、キャンバスにボンドを流し込み、形成してアクリル絵の具を塗り、その上から鉛筆で塗りこめていくという作品があります。ボンドは自由に変形され、その形態はイメージそのものになっているように感じました。私はそうした“形態”であり、“イメージ”でもあるというあり方をうらやましく思ったのですが、“形態の自由な変化”を私の作品に置き換えてみた時、より自由なパネル構成という発想に発展しました。

 ”Composite Scenery ” のシリーズは、分解できる複合的なパネルで構成されています。裏側はボルトで固定されており、組み合わせることで1つの絵画を作り出しています。パネルの接地によってできる物理的な線は、絵の中のシャープなラインとなり、その四角を美しく見せるように私は感じています。画面中にはかすかな色彩が存在しており、映りこむ世界の色と表面で混濁し、新たな空間世界を立ち上げています。

 

<Colors>

色彩表現の試みとして新しく出現したColorsという作品シリーズ、このシリーズは、任意に私が興味関心を持って拾ってくるイメージから色彩を抽出し、その色で布を織るように展開させながら新たなイメージを紡ぎ出すという作品です。大体14~21色の色数と色の順番を始めに決定し、そのパターンを利用し、また変化させながら描いてゆきます。

私の制作のコンセプトに、イメージを中心とした絵画ではなく、方法によってイメージが立ち上がってくるような作品を描きたいという思いがあります。それを実現させる為の世界感は、人の脳が外部刺激を脳全体で受け止めているのではなく、視覚、聴覚など、情報の性質ごとに反応する部分が違い、それを統合した形で人にとっての世界が形成されている感覚に似ていると思っています。こうした考えが、私の表現における“複合的な1つの絵画”のイメージを作っています。

Colorsのシリーズは、全体を構成する細部の単位が色彩によってできており、こうした細部と全体の関係は私の制作のほとんど初期の頃から持っている特徴です。色をパターン化したり、その流れを変化させてゆくことは、いつも1つの音楽と結びついています。それは、スティーブ・ライヒの「Music for 18 Musicians」という曲で、声、木琴、クラリネット、フルート、ヴァイオリン等、文字通り18人の音楽家が奏でるスタッカートの効いた旋律が、バトンを渡しながら大きな音の流れを作っていくような曲で、何度聞いても季節が移り替わってゆく風景的なイメージが脳裏に浮かんできます。それはいつも視覚的で、時間を感じさせるものでもあります。スティーブ・ライヒはクラシックのベースがありますが、実験的で新しい音楽の可能性を切り開いた作曲家だと私は思っています。この曲は指揮者のような中心が存在せず、18人の演奏者の配置そのものが、その音楽の思考性や意識を視覚的にも構成しているように思います。それぞれの音源が独立し、それらが強調されることで、音が交感しあう感覚をより強くしている気がします。大分前になりますが、初めてこの曲を聞いたときから、私は絵画の理想をこの音楽の中に見ていたかもしれないと思っています。

色彩を選ぶ際、“思いつき”もしくは“私の意識が留まったもの”から色を構成することにしています。もちろんそれは、絶対的なそのものの色ではなく、印象という次元に起こる色をめざしていて、生物であったり、絵画であったり、皮膚の打撲跡であったり、あらゆるもの、と考えています。色のイメージの元がどこにあるかはタイトルに残され、絵の中の不在の像として、鑑賞者の中に浮かべることができたら、それもイメージのあり方として面白いのではないかと思っています。